本学院の130年以上にわたる歴史は、創立者岡見清致の信仰に基づく教育事業の一環として始まりました。1884(明治17)年12月8日に「頌栄学校」(小学校)が開校し、翌年の2月には「頌栄英学校」が、同年9月には「頌栄女学校」が発足しました。その開校式には岡見家と個人的にも親交の深かった福沢諭吉も臨席しています。本校では「頌栄学校」の開校日である「12月8日」を創立記念日にしています。「日本の国をしっかりした国にするには、女子に教育を授けることが最も大切なことの一つである」という確信のもとに、岡見清致の自費をもって、頌栄女学校は創立されました。創立当初は二本榎2丁目(現・港区高輪)にありましたが、1886(明治19)年に新校舎が完成し、現在地(白金台)に移転します。桜の木が多かった当時のおもかげは「猿町児童遊園」など一部に残っていますが、島崎藤村の小説「桜の木の熟する時」は、このころの高輪台付近の様子をよく描いています。1888(明治21)年、島崎藤村の師であり、台町教会(現高輪教会)の牧師であった木村熊二が、創立者岡見清致の懇望によって頌栄女学校の校長に就きます。このときすでに明治女学校を創立し、学習院などの教師を兼ね、東京基督教徒青年会(現・東京YMCA)の責任者でもあった木村熊二の校長就任は、頌栄の対外的声価を大いに高めました。同時に、創立者岡見清致の描いていた「ミッション(海外キリスト教各派の伝道団)から独立したキリスト教主義学校」としての特徴がより明確になりました。当時の生徒数は約40名で、ほとんどがキリスト教徒の子女であり、知名人の子女も多く、「白金の華族女学校」と言われたのもこのころです。1899(明治32)年に高等女学校令が発令され、教育制度が変わります。それに伴い、頌栄女学校は高等女学校に昇格しました。大正から昭和初期にかけて頌栄高等女学校は生徒数が750名にも達し、飛躍的な発展を遂げます。しかし、1937(昭和12)年頃から戦時色が強くなり、国民的な苦難の時節とともに頌栄もまた苦難の道を歩みました。1945(昭和20)年8月、日本はポツダム宣言を受諾し、長く過酷な戦争はようやく終わりました。占領下という厳しい条件の中で、教育改革も進められていきます。1947(昭和22)年4月より6・3・3制が採用され、5年制の高等女学校は中学校と高等学校になりました。1962(昭和37)年、創立者の孫でもある岡見如雪が理事長に就任し、改めて真のクリスチャンスクールの実現を目指しました。1964年には校名が現在の「頌栄女子学院中学校」と「頌栄女子学院高等学校」とに改称され、キリスト教学校教育同盟にも加盟しました。それから3年の間に、現在の中学校校舎、頌栄山荘(南志賀高原山田牧場内)が建ち、プールも完成しました。そして、1974(昭和49)年には全校生徒、教職員が集まって礼拝を守ることのできる大講堂として「グローリアホール」が竣工しました。1981(昭和56)年、ゆかりの深い軽井沢の地に、セミナーハウス、体育館、テニスコート2面を持つ「軽井沢学荘」が完成しました。軽井沢と言えば、1889(明治22)年、頌栄女学校の生徒約20名が、同校教員である婦人宣教師のC.T.Alexander指導のもとに我が国最初の林間学校を開いた地と言われています。1982(昭和57)年9月には英国学校法人Winchester Shoei Collegeが誕生し、本校卒業生ならびに、他校の高校・短大卒業の入学生が、充実した大学生活を送っています。その後も、グリーンヒルハウス、ホワイトハウス、体育館などの新校舎が建設され、校内施設が充実していきます。これによって完全な中高一貫教育が可能となり、その成果は着実な進学実績の伸長として顕れています。1984(昭和59)年には創立100周年を迎え、制服がセーラー服から現在のブレザーとタータンチェックのスカート、白のブラウスに変えられました。1999(平成11)年には創立115周年記念事業として「頌栄山荘」の建て替え工事が始まり、翌年に完成しました。このように本校は長い伝統を守りつつ、現在まで着実な発展のあゆみを進めています。創立者 初代校長 岡見 清きよ致むね- 43 -明治20年代の洋風校舎学院のあゆみ学院のあゆみ
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